神棚・神具のことをわかりやすく解説しています。
神棚・神具がよくわかる

伊勢神宮・全国の主な神社

八幡神社

八幡神社には、八幡宮や八幡社と称される神社も多く、さらに地名などを冠した呼称の社も見られます。八幡神社は全国に約八千八百社あり、分布もほぼ全国的に見ることができます。
八幡神社の起源は、大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮(宇佐八幡宮)をはじめとします。
御祭神は応神天皇(誉田別命)・神功皇后・比売神の三神で、欽明天皇の御代(540〜571年)、豊前国宇佐郡の御許山にはじめて現れ、大神比義(おおがのひぎ)によって祀られるようになりました。これが宇佐神宮の創祀とされています。

奈良時代、八幡神は聖武天皇の詔によって進められた東大寺の大仏建立を助けるため上洛し、東大寺の守護神として鎮座(現・手向山神社)、次第に仏教との習合を深めていったため、仏法守護の神として崇められ、「八幡大菩薩」の称号が奉られました。
また、同時代末には和気清麻呂(わけのきよまろ)が宇佐八幡宮の託宣を受けて皇位を狙う僧道鏡の野望を阻止したことにより、皇位守護の神としての性格も強めました。

平安時代には平安京の守護神として勧請され、都の裏鬼門(南西)の方角の男山に祀られたのが、現在の石清水八幡宮です。鎮護国家の神として朝廷の篤い崇敬を受けました。
この石清水八幡宮の社前で、元服の式を挙げたのが八幡太郎として名高い源義家です。義家は源氏の棟梁として八幡神を自らの氏神、また武門の守護神として仰ぎました。
その由縁もあり、源頼朝が鎌倉幕府を開くと、中心に鶴岡八幡宮を創建し、幕府の守護神として祀りました。
このほか、祭神の縁故の地や宇佐神宮・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮の神領への分祀、また源氏、殊に頼義や義家といった武将の勧請などにより各地に祀られるようになりました。

天満宮・天神社

天満宮や天神社は、学問の神である菅原道真公を祀る神社として一般に知られております。
北野天満宮や太宰府天満宮をはじめ、太宰府への西下の折の道真公の生前の足跡地、また御神託や縁故により祀られたものなど、道真公を御祭神とする多数の神社が全国にあります。
神社本庁の祭祀祭礼データに登録された祭神別集計を検索すると、関連の御祭神は全国で一万百二十九件祀られています。

道真公がなぜ「天神さま」と呼ばれ信仰されたかですが、御存じの通り、道真公は右大臣になりましたが讒言(ざんげん)によって太宰府で悲運の最期を遂げます。
薨去の後、都では雷禍に見舞われ、道真公を無実の罪に陥れた者たちが怪死する事件がおきました。人々は道真公がこの世に怨みをいだいた御霊(ごりょう)となり、そして火雷天神になったとして、北野天満宮・太宰府天満宮を創建し、神として祀るようになったのです。
こうした経緯により、当初より朝廷の篤い崇敬を受け、後世においても変わることなく、明治時代、各神社の社格が定められた折りにも北野・太宰府の両天満宮は、人臣を祀る神社として唯一の官幣中社に列せられました。

諏訪神社

諏訪神社は、長野県に鎮座する信州一宮の諏訪大社を総本社とする神社で、建御名方神(たけみなかたのかみ)を御祭神とし、妃神である八坂刀売神(やさかとめのかみ)を合わせ祀る場合もあります。
諏訪神社は、全国に二千七百社あり、その分布は長野県を中心として中部・北陸地方に多く見られますが、それ以外でも北は北海道から南は鹿児島県まで、ほぼ全国的に鎮座しています。

「古事記」によると、諏訪大社の御祭神であり、国津神(くにつかみ)の大国主命(おおくにぬしのみこと)の御子神である建御名方神は、天孫降臨に際して国譲りの交渉にやってきた天津神(あまつかみ)の建御雷神(たけみかづちのかみ)と力競べをしたところ、建御雷神のあまりの霊威におそれ驚いて敗走し、信濃国の洲羽海(すわのうみ・現在の諏訪湖)に追いつめられ、降参しました。この時、天つ神に対して国譲りをおこなうとともに、自らはこの地を出ないことを誓い、諏訪の地に奉斎されたのが諏訪大社の起源です。

総本社の諏訪大社は上社(かみしゃ)・下社(しもしゃ)からなり、さらに上社が前宮(まえみや)と本宮(ほんみや)に、下社が春宮と秋宮に分かれる二社四宮の形になっています。また、上社本宮には本殿にあたるものがなく宮山を御神体山として拝み、下社の春宮では杉の木、秋宮では櫟(いちい)の木をそれぞれ御神体とするなど、祭祀の古い形態を見ることができます。
祭祀の具体的内容でも、上社・下社各宮の社殿の四隅に立てられる御柱(おんばしら)と称される樅の木の柱を、申年と寅年の七年目毎に新しく曳き立てる「御柱祭」など、古くからの伝統による特殊神事が数多くあります。

中世には武田信玄が諏訪大社の社殿造営をおこなうなど、建御名方神は武勇の神としての武家の崇敬を集めました。
また風雨の神、鍛冶の神、農耕・狩猟・開拓の守護神といった幅広い御神格を有したため、後世、諏訪神社は信濃国のみならず各地に奉祀され、庶民からも篤く信仰されるようになりました。

日吉神社・日枝神社

日吉神社は、広く全国に分布しており、「日吉」を含むものが一千二社、また「日枝」を含むものが五百四十七社、「山王」を含む神社が百十五社あります。
「日吉」の社名は「日枝」とも書き、読みは「ひえ」が古訓ですが、「ひよし」という呼び方もされます。
また「山王」の社名は、中国天台山の守護である山王祠になぞらえて、天台宗により用いられるようになったものです。

さて、日吉神社は滋賀県大津市に鎮座する日吉大社を総本社とします。
日吉大社は琵琶湖を臨む比叡山の東麓に位置し、東本宮の主祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)は、古くから日枝山(比叡山)の地主神として信仰されました。
また、西本宮の主祭神は大己貴神(おおなむちのかみ)で、天智天皇六年(667年)の近江大津宮への遷都に際し、大和国の守護神であった三輪明神を勧請したものです。

日吉大社の歴史の中でも、平安時代からの神仏習合は特筆すべきことといえます。
天台宗を我が国に広めた最澄は、唐から帰朝の後、比叡山に寺院(延暦寺の前身)を建立しました。
以後、延暦寺では日吉神を地主神として崇め、日吉大社の東西本宮、摂末社に至るまで、本地仏が配されるなど、日吉大社に対する信仰を天台教学の中に取り入れていきました。このため天台宗の全国布教とともに、日吉大社に対する信仰も広まりました。

明治時代、神仏分離の制により日吉大社と延暦寺の直接的な関係はなくなりましたが、今でも山王祭には天台座主以下、随行の僧侶により神前読経がおこなわれるなど、往事の名残をうかがうことができます。
東京・赤坂に鎮座する日枝神社は、日吉大社と同じく官幣大社に列せられ、その創祀は一説に太田道灌が江戸城築城に際して鎮守として祀ったといわれております。
江戸時代将軍家より鎮守として崇められ、明治以降も准勅祭社とされるなど、首都の鎮守として朝野の崇敬を集めています。

神明社・神明宮

神明社は、伊勢神宮(内宮)の御祭神である天照大御神を主神として祀る神社です。
全国に四千七十三社あり、全国に広く分布しています。
さて、伊勢神宮は、皇室の祖先神である天照大御神を奉斎し、その祭祀も天皇御自身が主宰者であらせられるという格別なる神社です。
古来、私幣禁断の制があり、私事のための参詣や祈祷が一切禁じられ、専ら皇室・国家に関わる祈祷のみがおこなわれていました。

中世以降、御師(おし)の活躍により民衆との結び付きが深まり、各地の武家の尊崇を集めるようになりました。
こうした尊崇は各地において領地(神領)の寄進という形で現れ、寄進された神領には神宮と同様に天照大御神をお祀りする小祠が設けられました。
これが各地に見られる神明社の成立で、庶民の神宮に対する信仰の広まりとともに神領以外でも地域の鎮守として奉斎されるようになりました。

近世になると交通網の整備などにより、商人や農民など一般民衆の間で神宮への参詣(お伊勢詣り)が盛んにおこなわれるようになり、各地に参宮を目的とした伊勢講などの講組織が結成されていきます。
特に江戸時代中期から後期になると、おかげ参りと称して全国各地から多数の老若男女が伊勢に参詣しました。
神明社に対する信仰は、伊勢神宮の御神徳が各地に広がり、それぞれの地域においても鎮守としてお祀りすることにより、その恩恵をこうむることができるというものです。

氷川神社

氷川神社は、埼玉県さいたま市高鼻町に鎮座する旧官幣大社・氷川神社を本社に、武蔵国の内、現在の多摩川と元荒川(中世の荒川の主流)の間の荒川流域に多く分布しています。
荒川は古来幾度も川筋を変え、その下流域も低湿地であったため、度々の氾濫に悩まされていました。

この地に氷川神社が広く祀られるようになったのは、出雲系の氏族であった武蔵氏が武蔵国造(くにのみやつこ)となって移住した時期であるともされ、縁の深い出雲の神々(須佐之男命・稲田姫命・大己貴命)が奉斎されました。
「氷川」の名は、常に氾濫するため恐れられ、故に神聖視された出雲の肥川(現在の斐伊川)の名に因むものといわれ、農業用水として大きな恩恵を受ける一方、水害にも悩まされた荒川を肥川に見立て、畏敬の念をもって氷川の神として信仰したと考えられます。

このため、開拓・農耕神として篤く崇敬され、荒川流域で新たに開発された地域には守り神として氷川神社が分祀されました。
このことが関東地方に氷川神社が多く鎮座する理由です。
後世、武士の東国進出ともに、武門の神としても信仰を集めました。
「氷川」の名の付く神社は全国で二百六十一社あり、関東を中心に鎮座しています。

住吉神社

住吉神社は、全国に六百十四社あり、その分布もほぼ全国的に見ることができます。
大阪市住吉区鎮座の住吉大社は底筒之男命(そこつつのおのみこと)・中筒之男命(なかつつのおのみこと)・表筒之男命(うわつつのおのみこと)の三神の和御魂(にぎみたま・穏やかな働きの神霊)と神功皇后を祀っています。
また山口県下関市鎮座の住吉神社は、底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命の三神の荒御魂(あらみたま・荒ぶる猛々しい働きの神霊)を主神として祀ります。

この三神は「日本書紀」神代巻に、黄泉の国から帰った伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が身についた穢れを清めるため、川の中で禊ぎをおこなった際に生まれた神々であると記されています。
その後、神功皇后の新羅出征に際しては、住吉大神の教えと御加護により、無事に戦勝を果たしたため、長門(現・山口県下関市)に荒御魂を、摂津(現・大阪市)に和御魂を奉祀する神社を創建したのが、既述した二社の創祀であり、住吉神社の起源であるとされております。

こうした起源などにより、海上安全の守護神として信仰され、住吉大社では遣唐使派遣の際に渡航安全の祈願がおこなわれたり、また、玉体(天皇)奉護の御神徳により平安時代には朝廷が格別に崇敬する二十二社の内の一つに数えられました。
庶民からは漁業の神として、また、水に結びつくため農耕神としての信仰も集めるほか、近世以降の商業発展とともに、各業種にわたる崇敬を広く集め、商売繁盛の神などとしても崇められています。

稲荷神社

稲荷神社の御祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、五穀を始めとして全ての食物をつかさどり、稲の成育を守護する神さまです。
稲荷とは、もともと稲成(いねなり)、つまり稲が成育することを意味しているといわれています。
中世から近世へと、商工業が発達するに従って、従来のように農業だけではなく、衣食住と諸産業の神さまとして崇敬されるようになりました。
全国各地には、多くの稲荷神社がありますが、そのほとんどは京都の伏見にある伏見稲荷大社から分かれたものです。

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